ADHDの可能性が濃厚らしい(日記帳を兼ねて)

ADHDの可能性が濃厚だと診断されたので、自分の記録を兼ねてブログをつけてみようかと思いました。病状etc、参考になれば幸いです。過去のこととかも忘れないうちに書き留めておきたいなと。

映画『プロメア』と、この世に存在する一人のバーニッシュについて(ネタバレあり)

注意:ネタバレあります。

というより、そもそもこのエントリーが、全編見た人じゃないとよくわからないかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あのスクリーンに囚われていた1時間と50分、私はバーニッシュだった。

名を、クレイ・フォーサイトと言う。

 

 

 

私には、ADHDという診断名が下されている。

ADHDという発達障害(あるいは発達傾向)の大きな特徴は「多動」「注意欠陥」「衝動性」と言われていることは、もしかしたらご存知の方が多いかもしれない。だが、そこにもう一つ──あるいはその三つの症状を支えるものに、「感覚過敏」が存在することはご存知だろうか?(注:これは私がそう言われただけなので、万人共通で感覚過敏が存在するのかは知らない。興味を持たれた方は是非調べてください)

 

私の感覚は敏感だ。具体的に言うと、聴覚と触覚と嗅覚と味覚が。

聴覚が敏感だから、一つのことに集中できない。触覚が敏感だから、腕と足がむずむずしてじっとしていられない。嗅覚が過敏だから、味覚が過敏だから──。そして強い刺激を受け続けたタンクはいつか暴発し、衝動的な行為に走る。まるでプロメアだ。

その罪深さに気がついたのは、私が小学2年生のときのことだった。

 

 

 

私は焦った。

隣の子はじっとできているのに、私はできない。友達は突然不機嫌になったり、叫び出したりしない。先生は手や足を突然かきむしったりしない。

そして私よりもひどい発達障害を抱えたあの子は、人を殴ってみんなに疎まれている。

 

なりたくなかった。バーニッシュに。

来る日も来る日も、物を投げつけたくなる衝動に耐えた。今日の服のタグのせいで首をナイフで突き刺したくなったとしても、じっと唇を噛んで我慢した。教室がうるさくてうるさくて仕方なくても、そのせいで頭が痛くなって、元凶である友達を殴って黙らせたくなっても、頭を押さえて耳を塞いで、ギリギリのところでこらえた。

だってあの子みたいになりたくないんだもの。

みんなみたいになりたかったんだもの。

この衝動は、この世にあってはならないものだったんだもの。

 

 

 

じきに私は、言葉という炎を覚えた。

言葉は便利だ。言葉は自由だ。口から、手から、指先からほとばしる言葉という炎は、誰に咎められることもなかった。言葉を書き溜めたノートと小説を打ち続けた未送信のメールの数だけがどんどん膨れ上がり、私の情緒は少しずつ安定していった。

その頃には私の感覚過敏は急成長し、ただの刺激だけではなく、人の感情までもをどんどん溜め込んでいくようになった。テレビで見聞きした誰かの話。本で読んだ何かの話。電車で私の足を踏んだ会社員の視線、誰かをあざ笑う友達の声、親に殴られて泣いている友達の顔、手を繋いで幸せそうに笑う恋人の姿。自分一人で抱え込むには、あまりに強大なエネルギーだった。私はそれを全て、言葉という炎に変えていった。

私は毎日何かを貯めては、炎に変えていく。喜怒哀楽によって巻き起こされる衝動は私の燃料になり、武器になり、後には小説という燃えかすが残った。某青い鳥のSNSを始めてからは、140文字の短い短いブログも燃えかすの一つに加わった。他にも歌やスピーチやディスカッションなど、たくさんの燃えかすを私は手にした。

1年がすぎ2年がすぎ、私はピザを焼いて幸せに過ごせると思っていた。

 

そして、私の左腕は暴発したのだ。

 

 

 

言葉は残酷だ。

私の放った言葉で、私の大事な大事なひとが燃えた。溜め込んだ自分の衝動のままにその人を詰り、泣き叫び、大量の燃料を生かして炎を悠々と操った私は、その人の心が折れるおとを、きいた。

ああ、違うんだ。違うんだ聞いてくれ、今のは私の、私の中の衝動が、火が、火が、火がぜんぶ、火がわるかったんだ、いやだ、いやだ、だって、わたしはあれだけ、

 

なりたくなかったんだ。バーニッシュに。

 

この暴発はそれはそれは大規模だった。私は自分の大事なひとだけではなく、周囲のいろんな人が私の言葉で燃えていたことをそこで初めて知った。高校1年生のときのことだ。

私が泣くごとに誰かが燃える。私が怒るごとに誰かが焼け死ぬ。溜め込んだ燃料を論理という武器に乗せたときの私の威力は凄まじかった。

言葉は万能じゃなかった。人に向ければ誰かの心が死ぬ。振り回したらその場が焼け野原になる。恋人を燃やし、友達を燃やし、親を燃やした私は、左腕を封印することを決めた。怒ることをやめ、言葉を慎重に慎重に選んだ。自分が間違ってもう誰かを燃やさないように。誰も傷つけないように。解放できない燃料が溜まるにつれて、少しでもプロメアの蓄積を遮断するため、本もテレビも見なくなった。毎日周りの様子を伺い、一言発するたびに怯え、家に帰るとずっと今日火傷をさせてしまったかもしれない人について考えた。

ごめんなさい、ごめんなさい、バーニッシュでごめんなさい、冷やしてあげられなくてごめんなさい、

怖いよ、

怖いよ、

怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い、どうかもう私を喋らせないで、

 

 

 

私は、バーニッシュは、悪だから

 

 

 

いつしか私は、バーニッシュに憎悪と憐憫の視線を向け始めた。

同じように発達に苦しむ人を、導いてやる義務があると思った。

私は毎日、炎を出さないように細心の注意を払った。暴力から言葉まで全て堪えた。「ADHDには見えない」と、そう言われて喜んだ。そりゃあそうでしょう。だって私はこれだけ頑張ったんだもの。

あなたは努力が足りない。なぜ人を殴る?なぜ人を傷つける?かわいそうに、努力の足りないあなたに私が努力の方法を教えてあげましょう。ああそうね、みんなに疎まれて悲しいね、わかるよ、だから私がいつか活躍できる場所を用意してあげるね。

炎を出したい気持ちはわかるよ、わかるよ、

だけどちょっとだけ、あなたには努力とこの世における役目が足りないのよ。

 

 

 

 

 

 

──さて、この映画は1時間57分の映画である。

 

 

 

私は残りの7分間も、バーニッシュだった。

だが、私の名はもうクレイ・フォーサイトではない。

 

私の名は、リオ・フォーティアだった。

 

 

 

「あなたは、そうやって生きなさい」

 

大学1年生のときだった。私と出会った1人の教授は、私にそう笑いかけた。確かフェミニズムに関する授業だったと思う。

この授業では、ディスカッションが許されていた。少しずつ少しずつ握りしめた左手を開いていく私を、クラスメイトは許した。ともに火を出し合い、綺麗な炎がそこに生まれた瞬間には拍手が巻き起こった。その授業の総括で、私は「これから先も、私はマイノリティとして、背筋を伸ばして生きていきたい。同じ境遇にいる人たちのために、言葉で障害物を焼き払っていきたい」と告げた。

恐る恐るみんなの顔色を伺いながら発したその言葉に、教授は大きく頷いた。

 

「素晴らしい。私はあなたに、是非そうやって生きて欲しい」

「権利獲得は戦いだ。私も女性として、言葉を操り、いろいろな人を不快にさせた。傷つけた。それでも負けていられなかった。私の魂を汚されるわけにはいかなかったから」

「あなたは素敵な言葉を持っている。そしてあなたは、自分たちの魂を汚されるまいとする覚悟を持っている。そういう人を、Living Exampleと言います。二つを兼ね備えた、本当にわずかな人にしかできないことです。みんなを導きなさい。あなたの後ろに続く人を増やしなさい」

「あなたは傷つくでしょう。そして誰かを傷つけるでしょう。もしかしたらあなたの表面はズタボロかもしれない。それでも覚えていて。その戦いの先にあなたが守り抜いた魂は、間違いなく高潔なものですよ」

 

 

 

ぽん、と心臓に一つ、三角形が飛び込んできた。

 

 

 

燃えた。私は燃えた。なりふり構わず燃えた。五感に飛び込んでくるものを溜め込み、たくさんの火を吐いた。私の後ろに続く人を守るための火を、まだ生まれていないバーニッシュを抱きしめる火を。私はたくさんの人間と話し、140文字の小さなブログで物事を発信し、学生弁論の場で演壇に立ち、小説を書くことを再開した。

私は人を傷つけたりしない。バーニッシュは無益な殺生は好まない。

ただ、聞こえるんだ。過敏な感覚から飛び込んでくる、たくさんの声が。

少しでもその声を、解き放ってやりたいんだ。

 

それがたとえ、自分ではないものに操られているだけだったとしても。

 

 

 

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この自分語りの掃き溜めみたいな文章を、ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

 

私を知っている人、あるいは前のエントリーを読んだ人ならわかると思いますが、この文章は半分は本当で半分は嘘です。

当然ながら私はマッドバーニッシュの親玉になんかなれていないし、フォーサイト財団のトップにもなれていません。その辺にぼんやりと生きている一人のエキストラくらいの人生だと思います。

ADHDと診断されていて、感覚過敏で苦しんでいるのは本当だけれど、こんなにわかりやすく人生がクレイからリオへと突然移行したりもしていません。

 

それでもこの文章を書いたのは、映画『プロメア』に、もう一回、三角形を突きつけられたからです。

 

 

 

クレイ・フォーサイトになりたくて仕方ない、たくさんの知り合いたちへ。

 

 

辛いよね。わかるよ。あなたは飛び込んでくるたくさんの感覚を処理しきれないでしょう。暴れ出したいでしょう。普通になりたいでしょう。普通になれたとき、努力が実ったことに手を叩いて喜びたくなるでしょう。そしてそうではないたくさんのバーニッシュを、きっと見下すでしょう。

私の中でもまだ、クレイは確かに生きている。ADHDに見えないと言われて喜ぶ私は確かにここにいる。

 

私はあなたたちにリオになってほしいとは言わない。ピザ屋の兄ちゃんになってほしいとも言わない。私はもう、私の都合のいい存在になってくれるあなたたちだけを認めたりしない。クレイの生き様は苦しいだろうけれど、あなたがそれを選ぶというのなら、私はいつだってそれを応援する。

 

でも、どうか忘れないでほしい。

あなたたちの、私たちの火が──あんなにも美しいということを。

 

 

 

プロメアと違って、ADHDの衝動は燃やし尽くせば終わりというものではない。だからリオやガロが導いてくれてはい終わり、なんてことは多分ない。わからない、もしかしたらそういうこともあるのかもしれなくて、私たちはまだただただ燃やすしかない時期なのかもしれないけれど、おそらくこれは、一生付き合っていくべきものなのだと思う。

だからこそ、余計に私たちは──否、私は胸を張らなくてはならない。

この炎が、私たちの誇りであるということに。

 

 

 

 

 

 

『プロメア』という作品をこの世に生み出してくださった方々、私に炎を分け与えてくれた教授、そしてこの雑文を最後まで読んでくれた皆さんに感謝を。